浮世絵で見る品川の四季
「東海道五拾三次之内 品川(日之出)」 歌川広重画
  品川宿で迎える日の出

 広重は、狂歌を詠むときの号を東海堂と名 乗ったように、「東海道の絵師」として自他共 に認められていました。その広重の最初の東海道シリーズが、ここにあげた品川の宿場風 景を含む保永堂版です。天保四(1833) 年に刊行が始まり、その翌年に全五十五図が 完成したと考えられています。  タイトルに「東海道五拾三次」とありなが ら二図多いのではと思われるでしょうが、「次」 とは「継ぎ」と同じことで、江戸から京まで のあいだに設置された53か所の宿駅をさします。これに江戸の起点日本橋と、京の終点 「三条大橋」の二図を含めて、全部で五十五図 になるわけです。

 品川は、江戸を発って最初の宿場町で、東海道絵としては第二図に当たります。第一図 の「日本橋」には「朝之景」と副題があり、 夜明け直後に大名行列の先頭が橋を渡りかけ 魚市場に通う魚屋たちも登場するという、に ぎやかな情景が描かれています。「お江戸日本 橋七つ立ち」とうたわれたように、日の出前 の七つ時に出立した大名行列も、品川の宿を 過ぎるころには空もすっかり明るくなったこ とでしょう。副題には「日之出」とあります。 列の最後尾が宿場の入り日を通過するこの図 が、先陣が正面から描かれた先の「日本橋」 の図を受けていることは明らかです。街道の宿駅を順次たどる道中絵は、このように俳諮 連句を詠みつなぐのと似た意識で構成された ものでした。空には赤みがさし、海の青の色と呼応して すがすがしい印象を与えています。長い旅路 もいま始まったばかり、晴れやかな気分が両 面いっぱいに広がっています。

広報しながわ2月号転載
(小林忠品川歴史館専門委員)さんの記事を転載させていただきました。

※この浮世絵は平成16年2月29日まで品川歴史館で展示しています。
「勝景雪月花 東京品川の雪  葛飾北斎 画」
雪に埋もれた品川の風景

家も、道も、海に浮かぶ小船も、雪に埋もれた品川の風景が見渡せます。今はようやく夜来の雪もやんだようで、東海道を往き来する人の列が続いています。手前左下に藁葺き屋根の家々と停泊している大型船の帆柱を大きくとらえ、それらを始点として海岸沿いの町並みが左上方へと弓なりに遠ざかっていく劇的な表現こそが、この絵の見所といっていよいでしょう。代表作「富獄三十六景」の風景画連作を発表していたちょうどその頃、すなわち天保年間(1830-44)の始めの頃の制作と推定されます。

「広報しながわ」12/1号に掲載されました。
「大日本物産会 武蔵国浅草海苔製図」  三代目歌川広重 画
江戸の頃から
 受け継がれる
   海苔作りの技

浅草海苔は古くから名高いものでしたが、浅草海苔とは名ばかりで、その産地は江戸時代前期から品川や大森へと移っていました。三代豊国と二代広重が合作した「江戸自慢36興」(元治元・1864年刊)という揃い物に「品川海苔」という一図があるように、土地の名を正しく付けて呼ばれもしています。この絵に描かれているのは、明治十年(1877)頃の品川における乾海苔の製造風景で、当時の盛況のほどがしのばれます。
「海中に林立している黒い木の枝は、「そだひび」と呼ばれるもので、ここに海苔の胞子を付着させます。干潮時に枝についた海苔を取り集め、浜にあげて紙のように漉宛き上げ、天日で干して仕上げます。秋の彼岸から春の彼岸までが作業の時期で、寒中に採る海苔が上物として珍重されました。
「広報しながわ」11/1号に掲載されました。
(小林 忠 品川歴史館専門委員)さんの記事を転載させていただきました。
「江戸自慢三十六興 海晏寺紅葉」 三代歌川豊国・二代歌川広重 画
江戸第一の楓の名所を訪ねて

紅葉あるいは黄葉とかいて「もみじ」といえば、秋に木の葉が赤や黄色に色ずくことを意味する大和言葉ですが、楓のことをさしていうこともあります。それは、花といえば桜をさすのと似ています。春に桜の名所をてずねて花見するように、秋も深まれば楓のもみじを愛でようとするのが、古くからの日本人のみやびな習慣でした。

 徳川時代の江戸とその近郊の人々にとって、観楓の名所といえば品川鮫洲の海晏寺がもっとも良く知られていました。ここは蛇腹もみじ、千貫もみじ、花もみじ、浅黄もみじ、猩々もみじなど、様々な種類の楓が植えられており、それらの木々の葉が赤く色づく季節ともなると、風流を愛する人たちの訪れでことのほか賑わったものでした。

 図は幕末の元治元年(1864)に刊行された「江戸自慢三十六興」という揃い物の一図で、その海晏寺の紅葉の楓もみごとな境内を描いたものです。



(小林 忠 品川歴史館専門委員)さんの記事を転載させていただきました。



10月5日~31日まで品川歴史館展示しています

品川広報10月号転載
「東都名所 八景坂」 歌川重次(一昇斎) 画
坂上で海を眺めて涼をとる


八景坂は、「はっけい坂」とよみ、「やけい坂」「やげん坂」ともよばれていました。大井から池上に行く途中の大森駅付近の坂道で、その上の見晴らしの良いあたりには明治のころまで、鎧掛け松という大きな松が生えていました。八幡太郎源義家(1039-1106)が奥州征伐の折鎧を掛けたと伝えられ、樹齢は古く、高さは二十メートルほどあったといいます。坂の上から品川沖の海が一望できることから、名物の松の下で休もうという人も多かったことでしょう。図に見るような茶店が、ひとときの憩いを提供していたものでした。

上の浮世絵は品川歴史館において7/5~31で展示されます。

「広報しながわ」7/1号に掲載されました。品川歴史館専門員小林忠さん 参考
「東京各大区之内・品川沖蒸気船鉄道望遠」二代歌川国輝 画
文明開化と品川沖の風景

この版画は明治6年(1873年)に刊行されました。作者の二代歌川国輝(1830~74)は、浮世絵画を歌川国貞(三代国豊)に学びました。

二代歌川国輝は明治初期に流行した開化絵のジャンルでは代表的な画家の一人です。

開化絵は、西洋の制度や文物を急速に受け入れようとした明治初期の文明開化の世相を報道的に描写して、一時期人気を博したものでした。


この絵は、
明治五年に新橋と横浜の間に開通したばかりの鉄道の列車が煙を上げて走っていき、その左方にはやはり蒸気で走る外輪船が遠望されています。その一方で、手前の遠浅の海には昔ながらのちいさい船が散らばり多くの人が木にできた台に腰をかけて釣りをしています。
浅い水中に入り込みアオギスをねらう「脚立釣り」という珍しい釣り方で、絵に取り上げられたということはこの頃からはやり始めたからでしょう。時代の急激な変化は、庶民の趣味の分野までも及んできたようです。、


品川歴史館所蔵
広報しながわ」 参考
「品川汐干」 歌川広重 画
風薫る五月、潮干狩りのにぎわい

手前では女性と子どもの一行が貝を拾い、平目のつかみ取りなどをして、大いに楽しんでいます。
後方にの干上がった浜には豆粒のような人物が散らばっており、左側には荷をかついでお茶を売る行商の姿さえ見えます。
海上には白帆に風を受けた船が浮かび、右側らの岸には品川宿の家並みが遠く望まれます。
右端中ごろの二隻の小さな船は、潮干狩りの人々がはるか遠浅の沖まで乗ってきたもので、やがて再び汐が満ちてくれば、人々はこれら船でもと来た船宿へと帰ることになります。

それにしても、かっての品川の浜は、貝や魚が豊かだったものです。手荷物籠の中の蛤の大きいこと、そして立派な平目が素手で捕まえられるのですから、夢のようです。

品川歴史館所蔵

広報しながわ 参考
「東都御殿山花見之図」 二代歌川豊国 画   御殿山の花見
江戸時代品川の御殿山は、花見の名所として親しまれていました。
町人はもとより、立派なお屋敷駕籠に乗った大名夫人など高貴な人々も、大勢の供をひきつれて遠出をしてきました。
徳川4代将軍の家綱の代寛文年間(1661-71)本場の吉野山より桜の木が移し植えられました。
満開の桜の間から海のほうを望めば
「安房、上総の山々、霞のうちにほのみえ、諸国の船は真帆をあげて入津する光景、いわんかたなし」という盛観だったようです。

御殿山の名前は鷹狩などの休憩所として将軍の御殿があったからだといわれています。

ペリー来航の後、海防対策のためにお台場が造られましたが、そのときに大量の土を提供したこの山はかっての面影をなくしてしまいました。

品川歴史館所蔵

広報しながわ 参考
「東都勝景一覧」葛飾北斎(文化十二年・1815年刊の冒頭の図)  品川の正月
品川の地にちなんだ狂歌が四首記されています。
多くの船が江戸湾の賑わい
、潮干狩りの名所。袖ヶ浦と呼ばれる
浜辺の景色や、房総半島までも見通しがきく海上の眺望。そして海苔の名産地。

「あそぶ日は
海苔とる船も
品川の
す(州)へあげてはほす(干す)
浦の初春」

品川歴史館所蔵
広報しながわ 参考
北斎館
中山道広重美術館
馬頭町広重美術館
由比本陣公園東海道廣重美術館
木曽路美術館
静岡県立美術館
■「品川歴史館」 浮世絵で見る東海道・品川宿 

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