>日本文学の中のコーヒー

寺田寅彦『コーヒー哲学序説』 

 しかし自分がコーヒーを飲むのは、どうもコーヒーを飲むためにコーヒーを飲むのではないように思われる。宅の台所で骨を折ってせいぜいうまく出したコーヒーを、引き散らかした居間の書斎の上で味わうのではどうも物足りなくて、コーヒーを飲んだ気になりかねる。やはり人造でもマーブルか乳色ガラスのテーブルの上に銀器が光っていて、一輪のカーネイションでもにおっていて、そうしてビュッフェにも銀とガラスが星空のようにきらめき、夏なら電扇が頭上にうなり、冬ならストーヴがほのかにほてっていなければ正常のコーヒーの味は出ないものらしい。コーヒーの味はコーヒーによって呼び出される幻想曲の味であつて、それを呼び出すためにはやはり適当な伴奏もしくは前奏が必要であるらしい。銀とクリスタルガラスとの閃光のアルペジオは確かにそういう管弦楽の一部員の役目をつとめるものであろう。

 研究している仕事が行き詰ってしまってどうにもならないような時に、前記の意味でのコーヒーを飲む。コーヒー茶わんの縁がまさしくくちびると相触れようとする瞬間にぱっと頭の中に一道の光が流れ込むような気がすると同時に、やすやすと解決の手掛かりを思いつくことがしばしばあるようである。
寺田寅彦
『コーヒー哲学序説』 
「寺田寅彦随筆集巻四」 岩波文庫


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