>日本文学の中のコーヒー

永井荷風 『砂糖』 

 午にも晩にも食事の度々私は強い珈琲にコニャックもしくはキユイラソオを濺ぎ、角砂糖をば大抵三ツほども入れていゐた。食事の折ならず著作につかれた午後または読書に倦くんだ夜半にもわたしは屢珈琲を沸かすことを楽しみとした。
珈琲の中でわたしの最も好むものは土耳古の珈琲であった。トルコ珈琲のすこし酸っぱいやうな渋い味ひは挨及煙草の香気によく調和するばかりででない。
佛蘭西オリヤンタリズムの芸術をよろこび迎へるわたしにはゴーチエーやロツチの文学ビゼやブリユノオが音楽を思出させるたよりとも成るからであった。

 いつ時分からわたしは珈琲を嗜み始めたか明らかに記憶してゐない。然し二十五歳の秋亜米利加へ行く汽船の食堂に於いてわたしは既に英国風の紅茶よりも佛蘭西風の珈琲を喜んでゐたことを覚えてゐる。

 紐育に滞在して佛蘭西の家に起臥すること三年、珈琲と葡萄酒とは歸國の後十幾年に及ぶ今日迄遂に全く發する事のできぬものとなった。
蜀山人が長崎のことを記した瓊浦叉綴に珈琲のことをば豆を煎じたるもの焦臭くして食べふべからずとしてある。

 わたしは柳橋の小家に三味線をひいてゐた頃、又は新橋の妓家から手拭さげて朝湯に行った頃ーーーかかる放蕩の生涯が江戸戯作者風の著述をなすに必要であると信じていた頃にも、わたしはどうして珈琲をやめる事ができなかつた。
永井荷風
『砂糖』 「荷風全集15巻」
岩波書店


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